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手作り腕時計作家が目指す「良い時間を届ける時計」とは

2015年8月31日
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手作り腕時計-作家がひとつひとつ手作りで仕上げる、個性的でオリジナリティーあふれる腕時計だ。そんな手作り腕時計の世界で「師匠」と呼ばれる男がいる。時計作家、篠原康治。手作り腕時計のパイオニアを突き動かした、溢れんばかりのモノづくりにかける情熱に迫った。

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個性的なデザインが特徴の手作り腕時計

私の仕事は時計をつくることです。時計をつくる職業というと「時計職人」が一般的ですが、私は自分の職業を時計職人ではなく「時計作家」と呼んでいます。

あくまで私のイメージですが、職人とは伝統を受け継いで次の世代に渡していくことを重視する職業だと考えています。その一方で、作家とは何か新しいものを生み出す仕事だととらえています。勿論単なるイメージですが、私たちは「何か新しいものを生み出すんだ」という自負を持って、自らを「時計作家」と称しています。

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真剣な眼差しで時計を製作する篠原氏

私が時計づくりを学んだのは今から約30年前、香港でのことでした。当時から香港は時計生産国として有名で、屋台・ナイトマーケットで大量の安価な時計や有名ブランドの模倣品が売買されていました。

当時の私は出張でよく香港を訪れる、機械部品商社に勤める会社員でした。大の時計好だった私は出張で香港を訪れるたびにナイトマーケットに足を運び、珍しい時計を探すことを楽しみにしていました。勿論当時から香港が時計の一大産地であることは知っていたのですが、香港で時計がどのようにして製造されているのかは知りませんでした。まして、この先自分が時計づくりに携わることになるなど思ってもみませんでした。

私が29歳の頃、香港のある時計メーカーに日本から持ち込んだ電子部品を納品するという仕事がありました。この時計メーカーでの出来事が、私の人生を大きく左右することになったのです。

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香港で偶然目にした時計製作の様子が篠原氏の人生を大きく左右することに

無事に仕事を終えてメーカー担当者と談笑している中で、何の気なしに私は時計工場がどこにあるのかを尋ねてみました。その答えは「隣だよ(NEXT.)」とのことでした。私はこの建物の隣に立派な時計工場があるのかと思ったのですが、なんと彼は「隣の部屋でつくっている」と言うのです。半信半疑でその部屋を見せてもらうように頼むと、彼は私たちのいる部屋のドアを開きました。そこには、大量の時計部品が並んだ長机とそこに向かう工員たちの姿がありました。まさに私たちが商談をしていた応接室の隣で、時計がつくられていたのです。

ムーブメント・針・時計本体・文字盤・バンドといった部品が机の上に並んでいて、それを工員たち(その時の私のイメージは、職人さんというより工員さんというものでした)が組み立て出荷していく。その光景を前にして「こうやって時計をつくっていたのか!」という驚きを感じました。同時に「ひょっとしたら自分でも時計をつくれるかもしれない」と直感しました。なぜそんなことを考えたのかは分かりませんが、今思い返すとその一瞬が全てのスタート地点だったなと思います。

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様々な工具・部品が並ぶ篠原氏の作業机

香港で時計の制作風景を見た私は、その半年後には会社を辞めてマンションの一室で時計づくりを始めていました。会社を辞めることに多少は悩んだこともありましたが、あの時の一瞬ですべて決めてしまっていたのだと思います。時計づくりを始めるまでの半年間は、香港と日本を行き来して部品の調達や組み立て方法を学んでいました。

香港で製造されていた時計は、いわば組み立て時計のようなものでした。当時の香港には、文字盤だけをつくるメーカーや針だけを製造するメーカー、本体やバンドの専門メーカーといった具合に様々な時計部品メーカーがひしめき合っていました。時計の心臓部であるムーブメントにSEIKOやCITIZENといった大手時計メーカーの部品を使用し、そこに香港メーカーの時計部品を備え付けていくという方式で時計が製造されていたのです。まず私はこの「香港式組み立て時計」を学び、日本でやってみることにしました。

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ひとつひとつ丁寧に手作業で時計を仕上げていく

香港式組み立て時計を日本で行うにあたって、最も苦労したのが部品の調達です。通常香港現地で消費される部品を日本に輸出してもらうわけですが、部品メーカーの多くは自社の製品を輸出したことがありませんでした。何度も香港に渡り様々なメーカーの方に助けてもらうことで、半年後には何とか部品を調達できるようになっていました。そして、私はいよいよ日本で時計づくりを始めることになったのです。

今思い返すと、怖いもの知らずのチャレンジだったと思います。当時日本では「製造拠点を新興国に移し、安価な労働力で製造した商品を輸入する」というやり方が主流になりつつありました。そんな中で、私は新興国の香港から部品を取り寄せて日本で組み立てをしていました。完全に時代に逆行したやり方で、私は時計づくりを始めたのです。