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とにかく釣れる、大物が沢山釣れるルアーを目指して-2

2015年10月1日
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日本のバスフィッシング黎明期から数々のトーナメントを制してきた

日本では1980年代からバスフィッシングブームが起こりはじめました。その影響で、当時バスフィッシング界の帝王と呼ばれたアメリカのバスプロ、ローランド・マーチン氏が来日することになりました。これは、日本のバスフィッシング界に大きな衝撃を与えた出来事でした。

そんな中、ローランド・マーチン氏を日本に呼び寄せた方から「B.A.S.S.インビテーショナルの席を取ったから、参加してみないか」という話をいただきました。私はその話の意味が良く分からなかったのですが、面白そうな話だと思って快諾し、渡米して本場アメリカのバスフィッシングトーナメントに参戦することになったのです。

B.A.S.S.とはBass Anglers Sportsman Societyの略称で、アメリカにある世界最古のバスフィッシング競技団体です。その中でも当時最高峰のトーナメントとされていたのが、トップ選手300人が参戦するB.A.S.S.インビテーショナルでした。B.A.S.S.インビテーショナルは年間6試合開催されるのですが、トップ選手のトーナメントですので誰でも参加できるというものではありません。ローランド・マーチン氏を呼び寄せた方が言っていたのは、そのインビテーショナルの出場枠を確保したので、日本人として参加する者はいないかということだったのです。

そうした経緯で私は1987年に渡米し、B.A.S.S.インビテーショナルに参戦することになりました。正直なところ私は何も分かっていない状態でトーナメントに参加したのですが、そこで味わった本場のバスフィッシングは本当に面白いものでした。そこで私は、バスプロとしてアメリカに残ることを決意したのです。

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1987~91年、米国トーナメントに日本人として初のフル出場を続けた

日本とアメリカのバスフィッシングトーナメントで、最大の違いはボートの数です。日本では1人1艇ボートを使用するのですが、アメリカでは不正防止のために2人で1艇のボートを使用します。エサを使ったり、釣っていない魚をどこかから調達したりということを防ぐために、選手2人が同じボートでお互いを監視しながら試合に臨むのです。ボートを用意している選手は「ボーター」、ボートがない選手は「ノンボーター」と呼ばれ、試合当日に抽選でボーターとノンボーターの乗船組み合わせが決まります。

私はアメリカ参戦1年目をノンボーターとして過ごしました。ノンボーターにとって、試合の結果はどのボーターにあたるかという運の要素が強くなります。試合前には全選手に等しく公式練習期間が設けられているのですが、ノンボーターはボートを持っていないので誰かのボートに乗せてもらって練習する必要があります。しかし、いくら公式練習で釣れたからといって、試合本番にその場所で釣りができるとは限りません。ノンボーターが試合をする場所は、全て抽選で決まるボーター次第なのです。

まして私のような東洋人が「この場所が釣れるから、今日はここで釣りをしましょう」と言ったところで、誰も相手にしてくれません。私のアメリカ参戦1年目は、どのボーターと一緒になるかという運との戦いだったのです。ただ、バスフィッシングの本場アメリカで最高峰のトーナメントに参加し、一流のプロと一緒に釣りをするということは本当に良い経験でした。

2年目になるとボート・エンジン・魚群探知機のメーカーとそれぞれスポンサー契約を結び、ボーターとして各地を転戦するようになりました。当時アメリカのトーナメントに1試合だけ単発で出場する日本人は何人かいらっしゃったのですが、1年間シーズンを通して出場した日本人は私が初めてでした。私はその後も試合に出場し続け、最終的に4年間アメリカでバスプロとして過ごすことになったのです。

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広大な国土・湖を舞台にするアメリカのトーナメントは体力勝負だという

アメリカでのバスプロ生活は体力との戦いでした。私はテキサス州ダラスに住んでいたのですが、そこから会場まで車でボートを牽引して向かわなければなりません。例えば、ダラス~ニューヨークはおよそ3,000km。移動だけで片道3日間かかります。トーナメントの度に3日かけて移動し、3日間の試合前公式練習に参加し、3日間試合をして、また3日かけて帰ってくるのです。

公式練習・試合当日は1日8時間ボート上で釣りをします。会場となる湖は日本とは比べ物にならないほど広大で、時速100kmのスピードが出るボートで数時間走らなければスタート地点から釣りのポイントまで到着しないこともあります。こうした状況下でトーナメントに出場し続けるには、体力が重要な要素になってくるのです。

私はそうしたトーナメント生活を送りながら、ルアー制作も続けていました。賞金だけで生活できるほどの成績を残すことはできなかったので、日本に向けたルアー販売でアメリカでの生活費を稼いでいたのです。こんな生活を4年続けたのですが、酷使した手首を痛めてしまいトーナメント出場が難しい状態になってしまいました。そこで私は、アメリカでの生活に区切りをつけて帰国することにしたのです。

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新設された国内トップカテゴリーのトーナメント初戦で優勝を飾ることに

私が帰国してからの10年程は、日本で空前のバスフィッシングブームが巻き起こった時期でした。国内で活動するバスプロの方々は、次々とプロショップと呼ばれる釣具店を開店したり、自身でルアーをプロデュースしたりするようになりました。私もアメリカ滞在中から日本でのプロショップの話をいただいていたので、帰国した私は小さいながらも自らの釣具店をオープンすることになりました。

帰国した私は日本のトーナメントにも復帰したのですが、ブームが過熱していく中で試合に参加する選手も増えていき、最盛期には1,000人単位の選手が活動するようになりました。そしてブームに合わせてバスプロ組織も大きくなっていき、1997年に国内トップカテゴリーのトーナメントが開催されることになりました。国内最高の実績を持つ31人の選手が出場し、年間5試合の成績を競うというものです。私もその31人に選ばれてトーナメントに出場し、幸運にもその初戦で優勝させていただくことになりました。その試合は、私がこれまで出場した中で最も印象に残っている試合です。

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自分で手作りしたルアーで掴んだトーナメント優勝は感慨深いものだ

その試合、私はミノープラグのドラッギングというテクニックを用いて優勝しました。ドラッギングとは、ボートの推進力を利用してルアーを操るテクニックです。ルアーは前方に投げたものをリールで巻き取りながら操作するのですが、ドラッギングではリールを使わずボートの推進力でルアーを操ります。こうすることによって、通常水深1.5メートルしか潜らないミノープラグが、水深3メートルまで潜るようになるのです。これは、当時の日本ではほとんど知られていないテクニックでした。

試合はこの水深3メートルラインをいかに攻められるかが勝負の分かれ目となりました。そして私はこのテクニックを駆使し、新設された国内トップカテゴリーのトーナメント初戦で優勝させていただくことになったのです。

また、使用したルアーが自分で作ったミノープラグであったことも、この試合が私にとって特別なものである理由のひとつです。いくらバスプロといえど、自分が手作りしたルアーで優勝した選手はほとんどいないのではないかと思います。